蜷川実花こそ“りりこ”である『ヘルタースケルター』

ヘルタースケルター』観賞。

見るつもりなんか毛の先ほども無かったのだが、監督である蜷川実花の写真を見て力の抜ける半笑いとともに映画への興味がわいた。今の今まで意識して蜷川実花の写真を見た事が無かったのだが、街の巨大看板などで「品格とバランスを欠いてギャル化したピエール&ジルみたいだなあ…」と思っていた写真が蜷川の手によるものだと知ったからだ。
ピエール&ジル*1は80年代に活躍した写真家である。「ミカド」や「サンディ&サンセッツ」のジャケット写真などが有名で、インド宗教画などを模倣した色彩感覚と、50年代のコマーシャル写真に顕著な「斜め上をむいてニッコリ」というようなポージングなど、徹底した“キャンプさ*2”が特徴である。彼らが活躍した当時から「写真家」としてカテゴライズすべきかどうか疑問視する声は多かった。撮った写真はあくまで素材で、極彩色の背景やキラキラとしたきらめきは後から書き加えられたものだからだ。
現在、雑誌や広告などでみる「写真」で、フォトレタッチ加工(いわゆるフォトショップでの加工)のされていない写真は無いと言って良いだろう。きらびやかに光彩が踊るギャル系ファッション写真から、大自然を写したイメージ写真まで。何気なく見ているタレントの写真も必ず手は加えられている。たとえば「DASH村」で見るテレビの長瀬くんと雑誌に掲載されている長瀬くんの顔を比べてみるとよくわかる。テレビではかなりのアバタがあるのが見てとれるが、写真ではキレイに消されているはずだ。

蜷川実花による沢尻エリカとピエール&ジルによるシルヴィ・バルタン
さて、蜷川実花である。彼女は写真家として名が知られている。だが、実際に彼女が彼女自身の「作品」で行った作業というのは「シャッターを押す」ことだけじゃなかったろうか?少し前に話題になった「キミからはコードの匂いがしない」じゃないが、蜷川本人が画像をチマチマ切りぬいたり、光彩のエッジをぼかしたりといった作業をしていない気がしてならないのだ。蜷川実花からは色調補正の匂いがしない。
そして。もしもボクの憶測が本当にそうだとしたら。それって正しく『ヘルタースケルター』の主人公「りりこ」そのものではないだろうか。
全身整形でコンスタントなメンテナンスをしなければ崩壊してしまうほどの人工物と化したりりこの身体。ベースとなる本人の特性はほとんど無い。にもかかわらず、人々の称賛の声を浴びるのは「りりこ」であり、決して彼女を作り込んだ医者では無い。蜷川実花の写真も、本人が撮った「写真」はあくまでベースの素材でしかなく「完成品」はフォトショップ職人によってベースが無くなるほどに調整された人工物。しかし「完成品」に対する称賛は蜷川実花が受けている。
インタビューなどを読むと蜷川は『ヘルタースケルター』映画化に7年も固執し続けたそうだ。それは『ヘルタースケルター』という物語や主人公の持つ喪失感や不安を蜷川本人が自分のことのように感じていたからでは無いだろうか?
彼女が手法を借用したピエール&ジルは「写真作品」としてでなかったとしても「アート作品」として称賛されるべきものだし、撮影(ピエール)と加工(ジル)をした2人双方に対して贈られるものだ。実際に彼らは「写真作品であるかないか?」といった論争とはまったく別に称賛され続けている。蜷川の場合。彼女が受けている「称賛の声」は「写真家:蜷川実花」へ対するものだ。しかし、実際はその称賛が自分自身へ向けられている事に違和感を覚えているのではないだろうか? その不安が蜷川を『ヘルタースケルター』というコミック原作の映像化に向かわせていたのではないだろうか?
映画で蜷川の写真作品のような極彩色の世界を作ろうとした場合、『シンシティ』や『スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー』のように、ブルーバックで撮影をし、背景をCGで作り込むのが手っ取り早いだろう。もしくは多少時間と金がかかるが、セットを作り込んで適切な照明をあてれば若干の色調補正で再現可能だ。そして、双方の手法ともに必要なのがスタッフへの明確なビジュアルイメージの伝達、準備、照明と画像処理の知識である。しかし、それらは「写真家」であれば当然持っていなければいけない知識でもある。特に蜷川のように、そういった作品を多く自分の名前で発表している人物であればなおさらのこと。つまり「本当に蜷川実花が自身の作品の制作に最初から最後まで携わっている」のであれば、ビジュアルだけは完成させられるハズなのだ。
……実はボクは「それを確かめることは意地悪なよろこびに満ちたものじゃないだろうか?」という極めて下衆な興味を掻き立てられ劇場へ向かったのだった。

映画『ヘルタースケルター』のビジュアルは暗澹たる残骸が転がる、肥大した自意識の無様な死にざまとしか形容できないヒドイものである。りりこの部屋は赤をベースとしていながら色調に統一感の無い小道具が部屋を埋め尽くしているので印象はくすんでしまいゴチャゴチャとした光景は、もはやゴミ屋敷にしか見えない。(上の写真は撮影されたシーンをフォトショップ加工してピンクに統一したものです。実際のスクリーンでは左にある額は黒くうるさく、手前の小道具がいたずらに色数を増やしてただただ汚い。)
水族館でのロケ撮影はグレーがかったブルーが汚く「蜷川作品」のかけらもうかがえない。繰り返し引用される記者会見シーンは赤い緞帳(ステージを隠すカーテン)の前で赤いドレスを着たりりこが登場という幼稚というにはあまりに幼稚過ぎる「あかすきだからぜんぶあかー!」といった“幼児的”な色彩感覚が見れる。それが本当に「幼児的な色彩感覚」であるならまだマシだ。実際のところ、赤い緞帳の前で登場人物に赤いドレスを着せたらどう映るのか解らなかったのではないだろうか?
後半、鎮痛剤の副作用で出演中のテレビのセットが動いて見えるという幻覚シーンで、マメ山田というミゼット俳優が出ているのだが、パースペクティブの狂ったセットの中に彼一人が踊り狂うというマメ山田の特異さを殺す演出。さらに異様な顔つきをメイクで隠すというダブルパンチで、せっかくの素材も完ぺきな無駄使いに終わっている。
写真芸術家であるはずの蜷川実花の監督作は、ビジュアルの貧困という致命傷を抱えているのだ。
さらに、ステレオタイプなキャラクター造形しか出来ていない演出もヒドイ。意味不明な編集はずばり「下手」と一言でかたずけてしまいたい。「気が効いているでしょ?」と押しつけがましいわりにあまりに稚拙な事情聴取のシーンも単にうざったいだけだ。
さて、良いところなど一つも無い『ヘルタースケルター』の存在意義として言われている沢尻エリカのヌードシーン。しかし、これが本当に何の特徴も無いのだ。本当に本当に何の感情も抱かせない。すごくオッパイが大きいわけでもないし、スタイルのバランスが良いわけでもなければ酷く悪いワケでもない。特徴が無い。艶めかしさもない。痛々しさもない。なーーーんにもない!これに対して1800円なりを払うのであれば、ツタヤで好みのアダルトDVDをレンタルした方が芸術的欲求を満足させられるはずだ。
何故、こんなにも解りやすくヒドイ作品が絶賛されていたり、エクスキューズの留保付きで「見る価値がある」と言われているのだろうか? その答えはエンドロールにある。出演者、スタッフの名前が終わった後、『ヘルタースケルター』に関わった関係各社のロゴが並ぶ。膨大な数の。おそらく100社は下らないはずだ。 その中には雑誌、出版社の名前もかなり見かけた。
おそらく「沢尻エリカがヌードになる映画でっせ!」という営業トークに乗せられた死屍累々であろう。あまりに大きくなりすぎたプロモーションは“関係者”を増やしてゆき、利害関係は狭い日本のさらに狭い業界のほとんどを席捲し、まっとうな意見をズバリと言える人間はいなくなってしまった。ならば、何の利害関係も無いボクがこの映画を正当に評価しましょう。

映画『ヘルタースケルター』は一銭五厘の価値も無い正真正銘の生ゴミ屑です。

*1:ウィキペディアには「ピエール・エ・ジル」とある

*2:けばけばしくて大仰な感じ。リベラーチェとか美和明宏とか