何故『セブン』がバッド・エンドなのか

※いきがかり上『セブン』『カサブランカ』『ドラゴン 怒りの鉄拳』『ガメラ3 邪神〈イリス〉降臨』のエンディングについて書いています。

デビッド・フィンチャー監督の出世作『セブン』は宗教がらみの深淵なテーマや徹底した後味の悪さも含め『羊たちの沈黙』以降のサイコホラーブームの中でも飛び抜けた存在として語られています。その『セブン』がハッピーエンドだったというブログエントリーが注目されています。

何故『セブン』はハッピー・エンドなのか
http://k.onodera.blog.ag/index.php/k.onodera/00000000000000016134

要約すると、ジョン・ドーは憤怒の罪の犠牲者として死にたかったのに、ミルズはその敬虔なクリスチャン性を発揮し、他人の罪を引き受ける犠牲的で崇高な精神の元で引き金を引いたので、ジョン・ドーは決して「憤怒の罪」の犠牲にはならなかった。
サマセットはその奇跡的な「人間性の勝利」を目撃し、ヘミングウェイの一節を引用して厭世観を捨てるに至った。だから『セブン』はハッピーエンドだとするものです。
最初に読んだ時に、「罪を引き受けるのは、他人の犯した罪に対する罰を受けるという意味で、罪を犯した人を罰するのは正しく神の仕事なので敬虔なクリスチャンなら絶対にしない事じゃないかなぁ?」とひっかかりを覚え、家に帰ってDVDを見直してみました。
ラストの当該シーン。ミルズはジョン・ドーを1発で殺した後、その死体に対して5発銃弾を叩き込んでいました。もの凄く怒った人の行動です。「やっぱりな!」という思いに至りつつ、DVDをデッキに入れたついでにオーディオコメンタリーや付属ブックレットなどを読み、色々と判明した事があるので書きます。

ヘミングウェイジョン・ダンの「誰がために鐘は鳴る

ラスト、モーガン・フリーマンヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』からのセリフを引用してこう言います。
ヘミングウェイはこう書いている。「世の中は美しい。戦う価値がある。」後半部分には賛成だ。」*1
ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の物語を要約するとこうだ。スペイン内戦時、アメリカ人義勇兵のロバートがゲリラと協力し、橋を爆破する任務についたが敵の作戦変更にともない、橋を爆破しても戦況に影響が出ない事を知る。しかし、動き出した作戦を止める事は出来ず、無駄だと知っている作戦を遂行せざるをえなくなる。やっても無駄な戦闘をして、やっても無駄な橋の爆破をして、出さなくてよい無駄な犠牲者を出し、自らも重傷を負ってしまう。そんなやりきれない状況の下、ロバートは惚れたゲリラのメンバーなどの仲間を逃がして死んでいく。
誰がために鐘は鳴る」という言葉自体は16世紀の詩人ジョン・ダンによるもので、ヘミングウェイの著書冒頭に引用された箇所を要約すると「人は一人々々は小さい存在で、大陸に例えれば一人は一個の土塊くらいの存在かもしれないけど、一人が死んだら岬を失うのと同じくらい重大だ。だから「誰のために鐘が鳴ってるのか?」とか聞くな。もちろんキミのために鳴っているのだから。」という、ポエムらしい解りづらさはありますが、ようは生命讃歌みたいな詩です。
それを踏まえて『セブン』のラストを振り返ってみます。
送電線の通る荒れ地に来た時点でミルズの嫁は殺されています。ジョン・ドーはすでに自白の確約済み。「オマエの嫁を殺してやったよ。泣いて命乞いされたけど殺したよ。お腹にオマエの赤ちゃんがいると言ってたよ。 おや?知らなかったのかい?」ミルズは煽られてついにジョン・ドーを殺してしまいます。そうする事で何も変わらないしどうにもならない。でもヤルべき時はヤンなきゃいかん。無駄とわかっていても戦わなければいけない時がある。
と、いったところか。ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』がそうだったように、ミルズもまた負ける事を覚悟しつつも負け戦に臨んでいたワケです。ジョン・ドーを殺すミルズの表情は、失う物は何も無くなった男の覚悟と捨て鉢な「もうハラ立った! 7つの大罪の完成とか知ったことか!」というヤケクソ感だったのです。
このヘミングウェイの引用は試写の後になってプロデューサー側からの要望で追加された事がオーディオコメンタリーで語られています。いわく、試写のバージョンはミルズがジョン・ドーを撃ち殺した瞬間に暗転しそのまま映画が終了する、救いも余韻も無く観客をやりきれない思いでいっぱいにしたまま突き放して終了するものでした。
プロデューサーからはダンボールの中身をミルズの飼っていた犬の死体だったという事にしろ! という指示さえあったようです。フィンチャーと脚本のウォーカーは断固としてそれに反対し「ならばせめて、多少は気の晴れるような一言、二言を加えてくれ」という泣きに答えた。それがヘミングウェイの引用だったのです。コメンタリーでフィンチャーはこうも言っています。
「ボクらはハッピーエンドの映画を作ったワケじゃない。」

ジョン・ドーの目的


まず、そもそも。ジョン・ドーは社会に対して警鐘を鳴らしていました。人々は好きな物を好きなだけ喰って、楽しみのための倒錯的なセックスに溺れ、人を不幸に突き落としてでも金儲けを優先する。キリスト教の「7つの大罪」ヤリまくってるじゃないか!と憤り、それぞれの“罪”に見立てた殺人を行い「オマエらはこんな罪深い事してんだぞ! これはオマエたちの姿だぞ! いつかこうなるぞ!」とつきつけようとしたのです。最初から“殉教”するつもりでもいたでしょう。
興味深いのはジョン・ドーが「生き死に」自体にはあまり頓着していないところです。
実際「怠惰」を見立てた犯行では被害者はまだ生きていました。ベッドに縛りつけられ丸々1年薬漬けにされて脳も腐って、ただただ生きているダケという状況ですが。
「傲慢」では容姿だけを磨いて高慢チキな女の顔をズタズタに切り裂き、生きるか死ぬかはあくまで本人に選ばせています。
「警鐘」になれば良いので「こうはなりたくないなぁ」と思える状況であれば死んでも死ななくても良いワケです。モデル並みに美形じゃなくても顔をズタズタにされるのはイヤだし、ジャンキーだって気持ちイイんだか悪いんだか解らないほど脳みそを腐らせてまでドラッグをやりたいとは思わないでしょう。
それは最後の「憤怒」に対してもそうです。劇中ではジョン・ドーの目論み通り7つの大罪を模した見立て殺人は完成します。警察官の“口に戸は建てられない”事は証明されています。事件の詳細はマスコミに漏れ、禍々しい「警鐘殺人」はセンセーショナルに取りあげられるはずです。ニュースを知った人々は日々の生活を自戒するきっかけになるのでは無いでしょうか? ある程度の支持さえ受けるでしょう。
もしも、ミルズが耐えに耐え、ジョン・ドーを殺さなくても同じです。すでにセンセーショナルな殺人は行われており、それらはリークされ、世間に広まるでしょう。ジョン・ドーは殺人を認め、精神異常も訴えず、素直に投獄されて最高刑に処されたでしょう。生涯を塀の中で暮らすか、死刑を待つ身になるか。いずれにせよ「そうはなりたくない」と思えるものです。
犠牲者はミルズだと考えた場合でも同じ答えになります。人々への警鐘のために愛する人を失いたくはない。
「そうはなりたくない」
つまり、ジョン・ドーはあの荒れ地で死のうと死ぬまいと、ミルズに殺されようとサマセットに殺されようと、怒りながら殺そうと、アルカイック・スマイルで心安らかに殺されようと、偶然落ちた落雷で丸焦げになって死のうとも、心臓発作で死のうとも、もはや、あの場にいる時点で「警鐘」は完成していたワケです。

『セブン』のテーマ

ジョン・ドーは長い目で見れば「良い事」をしていたワケです。「キリスト教的な道徳心を忘れないで、つつましく生きなさい!」と警鐘を鳴らしたワケですから。彼のおかげで世界は少し生き易い場所になったかもしれません。
単なるキチガイのヘンタイだったけど。
ラストの荒れ地に赴く車内でジョン・ドーが一度だけ、口ごもる瞬間があります。人々の堕落を嘆き自らの行為の崇高さをまくしたてるジョン・ドーをサマセットがピシャリとたしなめます。
「でも、オマエは人殺しを楽しんでただろう?」
「……でも、仕事を楽しむ権利もあるだろ?」
ここでジョン・ドーが単に快楽のために人を殺していた事が露呈します。律儀で頭も良く行動力もあるジョン・ドーだったとしても、人を蹂躙し高みから見下ろす事に快感を覚えるヘンタイでしかありませんでした。それはそのまま、この世界がキチガイのヘンタイが作った秩序に従った方が生き易くなる、という現実を突きつけています。
橋下徹の国歌に対するワケのわからない熱意を思い起こせば解り易いでしょう。国歌斉唱時、そこにいる人全員が「自発的」に起立して姿勢を正しく手を横に、大きくお口を開けて国歌を歌う光景は非常に規律正しいように思えます。北朝鮮マスゲームのようで気持ち悪いですが。
そして、どう「自発的」な行動へ誘導したのかこそが問われるワケです。国民全員が国に誇りを持ち、国を讃える国歌を歌う場では敬意を表して正しい姿勢に、自分の自由意志でそうしているのならば素晴らしいと思います。
しかし、テレビで顔が売れているという理由だけで当選したようなキチガイが「歌わなければ罰則だ!クビだ!」と唾を飛ばして怒鳴るのが恐ろしいから、そうしているのであれば人間の自由意志を踏みにじった人権蹂躙です。
キチガイに強いられた秩序と、自由意志に任せた混沌ではどちらがイイか? 『セブン』はそう問うているのです。

なぜ『セブン』はバッドエンドなのか?

プロデューサーの意向により追加されたラストカットは『カサブランカ』ラストを彷彿とさせます。
サマセットと警察所長のリー・アーメイ(!)の2人はパトカーで連行されるミルズを見送り、他愛も無い言葉をいくつか交わし、トレンチコートにソフト帽で砂埃の中へ去っていきます。
カサブランカ』は『誰がために鐘は鳴る』の舞台でもあるスペイン内戦時に、レジスタンスだったリックは実らない愛を前に、それでもイルザと旦那を見送って、自分は警察所長と友情を誓い、トレンチコートにソフト帽で夜霧の中へ去っていきます。
『セブン』の、それまでのささくれ立った情景に『カサブランカ』というロマンスのイメージを加えてソフトランディングさせたワケです。また『誰がために鐘は鳴る』の引用もふくめて踏まえるとサマセットと警察所長は明日からもまた顔を付き合わせる=サマセットの復職も暗示しています。
つまり、世の中を厭世的に悲観していたサマセットは警察官という仕事に限界を感じ、退職を決意していたのですが、ミルズの負け戦に挑む情景を目の前に、自分も負け戦に挑もうじゃないか! と決意したのです。それは『ドラゴン 怒りの鉄拳』のブルース・リーや『ガメラ3 邪神〈イリス〉降臨』のガメラと同じく、負け戦に臨む姿です。
その姿は「ハッピーエンド」という言葉を広義に捉えたとしても、その枠からはみ出した「でもやるんだよ!」精神ではないでしょうか?
プロデューサーからの要望とはいえ、かなり粋な展開を加えた事で『セブン』を取り巻く状況や、映画『セブン』をあの形で鑑賞できた観客にとっては「ハッピー」だと言えるかもしれません。ただ、それは『セブン』がバッドエンドだからこそなのです。

*1:Ernest Hemingway once wrote, "The world is a fine place and worth fighting for." I agree with the second part.