『ヴェノム』が生んだ“ねじれ”の正体

『ヴェノム』鑑賞。

サム・ライミスパイダーマンの3作目で登場した、宇宙から来た寄生生物“シンビオート”ヴェノムの単独作品。スパイダーマン世界からのスピンオフ作品ということになる。

さて。
陳腐なウソしかつかないクセに国民の血税を自分と自分の友達のみの為にジャブジャブ使い、追求する者や訴追する者を脅し、懐柔し、のうのうと首相の座に収まり続けているチンカス安倍とその友達自民党クソ政権。
その安倍政権を支持し、在日外国人(もしくはルーツが外国にある日本人)を攻撃してチンケな自尊心を満たし自慰に耽るネトウヨというクズども。
満員電車でワザとゴリゴリと肘を突き出す巨漢。痴漢。未だにスマホを見ながら(しかもラッシュアワー新宿駅コンコースを)歩いているカッペ。などなど。
そういった連中を目にすると非常に簡単かつ暴力的な手段が頭をチラつく。
「殺してやろうか?」
しかし、しない。傲慢な巨漢やネトウヨ、痴漢、安倍を殺しても、その過剰な暴力に手が後ろに回るのはコッチの方だろうし、逃げ切る自信も無い。ギリギリようやくチンカス程度の価値を持つ奴らのために、そういった重責を負うのは全く割に合わない。しかたがないから無視をするか、法の内側程度の手段で相手にとってイヤな思いをさせるのがせいぜいだ。
だからこそ、虚構の中での単純で明快な暴力の行使は魅力的に見える。悪人にはとにかくヒドい目にあって欲しい。手足をもぎとられ、舌を抜かれ、目を潰され、性器をえぐり取られた上に口の中へ押し込まれ窒息して死んで欲しい。
そういった欲望は非常に「簡単」なものだ。「幼稚」と表現しても良いだろう。それは映画でも同様だ。
たとえばイーストウッドが不良たちを撃ち殺して全滅させる『グラントリノ』があったとしたら、爽快さはあるだろうが今の形での、涙を搾り取るほど心を揺さぶる作品にはなって無いはずだ。
カラス神父とメリン神父のタッグ攻撃が功を奏し少女に乗り移った悪魔を見事に退治してみせる『エクソシスト』や、シャルニエの両手に手錠がガチリとかかるラストの『フレンチ・コネクション』。これらもオリジナルの感動を超えはしない。しかし、単純明快な爽快さは生まれるだろう。
近年のアメコミ、スーパーヒーロー映画はどうだ? 親を殺された私怨を捨てきれず仲違いをする『シビル・ウォー キャプテン・アメリカ』。(前後編の前編とはいえ)健闘も虚しく指パッチンひとつで人類を半分失う『アベンジャーズ インフィニティ・ウォー』。複雑な状況や重い心境を卓越した描写で表現した優れた作品ではある。
だが、しかし。スカっと爽やか、真夏にキンキンに冷えたコーラをガブ飲みしたような爽快さは無い。

さて、『ヴェノム』だが。オリジナルのコミック版「ヴェノム」をクリエイトしたのは『スポーン』でも有名なトッド・マクファーレンだそうだ。そう踏まえると確かにマクファーレンらしい造形をしている。高身長のゴリマッチョな体躯はそれだけでも対峙したくないと思わせる。その上、乱杭の鋭いキバが密集した口と不定形で不穏な目を持っている。しかも、真っ黒。そのままヘビーメタルのジャケットになりそうな禍々しさがある。
また、その性格設定もシビれる。“シンビオート”は地球人を“エサ”としか見ておらず、目的の障害になりそうなら躊躇無くブッ殺し、食べてしまう。しかも、“中の人”トム・ハーディ演じるエディ・ブロックの境遇に共感した“シンビオート”は、エディの心情をおもんばかり、ブッ殺して食べるのは悪人のみだ。
つまり、ヘビメタジャケット即戦力な見た目の怪物が、悪党ばかりを狙って、頭からモシャモシャかぶりついて食べるのだ。

このカッコよさよ!

このカッコいい爽快さは、上記した「幼稚さ」に強く所以していることは明白だ。それこそが、本作における批評家と一般観客の“ねじれ評価”を生んでいる正体だ。
もちろん、批評家の多くも本作の幼稚な魅力を楽しんではいたのだろう。ただ、それをそのまま評価しずらいというのは理解できる。『ファニーとアレキサンデル』を褒めた口で『ヴェノム』を褒めるのは、やはり何か決定的に間違いがあるような気はする。

そういった批評家の杞憂などとは関係の無い我々は本作の狂騒的で残酷でカッコいい楽しさを、ただただ喜ぶのみである。
We are VENOM!

蔓延するMMFRシンドローム『ミッション:インポッシブル フォールアウト』

ミッション:インポッシブル フォールアウト』鑑賞。

トム・クルーズ/イーサン・ハントのシリーズ最新作。
旧ソ連から持ち出された核物質をめぐり、国際テロ組織「シンジケート」と争奪戦を繰り広げる。と、まとめると、シュワルツェネッガー主演の簡単なアクションものの様に聞こえる。
本作は撮影に入ったその日には脚本が30ページほどしか出来ておらず、アクションを撮影しながら、そのアクションをどう次のアクションに繋げていくか物語を作りながら撮影がされたとウワサされている。
そのウワサに信憑性を感じるのは、大雑把な無理筋を通すために引っ込んで横たわる「道理」の死屍累々からである。
CIAからイーサンらを監視するために送り込まれたヘンリー・カヴィル/ウォーカーは、なぜスカイダイビングでドジっ子だったのか? そもそも、フランスの雑多なクラブに潜入するのになぜヘイロージャンプをする必要があったのか? 後半で明かされるイルサのミッション遂行の動機は、なぜそこまで頑なに秘密にされなければいけなかったのか?
それらを始めとして、何がどうして何故そうなっているのか皆目検討がつかないことだらけのまま、連べ打ちに展開されるアクションを眺めるのみである。
それはすなわち、プロデューサーでもあるトム・クルーズの意向に他ならない。つまり、物語とは破綻していても良いものなのである。M:Iシリーズの最優先事項とはアクションと、そのアクションが溢れんばかりに盛り込まれていることである。
さて、つい最近公開されたスターウォーズのスピンオフ作品『ハンソロ』だが、こちらもアクションに継ぐアクションで構成された作品である。スピーダーのカーチェイスから宇宙港でのサスペンスを経て西部劇まがいの列車強盗云々……
この組み立ては、とある傑作に影響を受けたと言われている。その傑作とは『マッドマックス 怒りのデスロード』だ。
確かに『マッドマックス 怒りのデスロード』は脱走したフュリオサとイモータン・ジョーの妻たちの逃走劇で、上映時間のほとんどがカーチェイスで構成された作品である。あらすじにしてしまえば「逃げて、だまし討ちで帰る」と僅か1ダースの文字で表現しきれるものだ。
しかし、ここには大きな勘違いがあるだろう。それはスターウォーズ/ディズニー/ルーカスフィルムもそうだがトム・クルーズも同様の勘違いを犯している。
上記した通り『マッドマックス 怒りのデスロード』はアクションに溢れた作品ではあるが、その中心には鋼鉄のように揺るぎない物語のブッとい骨が通っており、その周囲にはブ厚い人物背景や社会背景という肉がガッチリとついている。だからこそ、アクションの合間に滲んで漏れるような物語のしずくに心動かされ、アクションへの肩入れが強固になっていくのだ。
単なるアクションの連べ打ちを見たいのならパルクールの選手権やモンスタートラックのショーがオススメである。もしくは自分の手をものすごく早く動かすのを眺めてもイイだろう。紛れもなく実在する、正しく「プラティカル・エフェクト」そのものである。
しかし、そうでは無い。
私や多くの人々が、わざわざ脳が沸騰するような気候の中、映画館まで足を運んで、安くない金額を支払い、2時間を超える映画を観るのはプラティカル・エフェクトそのものが観たいワケでは無い(そういう場合もたまにはあるけど)。
ミッション:インポッシブル」シリーズに、少なくとも私が求めるのは、不可能と思われる任務に、キテレツな作戦を立て、あまつさえその作戦すら遂行不可能の目にあいながら、自殺まがいの行動と奇妙なガジェットと類い稀なる強靭な肉体で向かっていく…… のが、すんなりと飛び込んでくる物語で語られる様子だ。
ただひたすらに行われる「自殺まがいの行動」や「強靭な肉体」が観たいワケでは無い。それが観たい気分の時にはジョニー・ノックスビルに頼るから。
トムよ。もう一度キッチリと脚本を練ってから出直してはどうだろうか? 次も絶対に観に行くから。

さいはてのカンフー『Vixens of Kung Fu』

「侍功夫」などと名乗っている通り、カンフー映画は好きな方である。
ブルース・リージャッキー・チェンジミー・ウォングにリュー・チャーフィーからドニー・イェンまで、もちろん大好きで観ている。
近年はいわゆる「カンフー映画」は減り、犯罪モノにカンフーによる戦いが組み込まれたアクション映画が主流である。もちろんそれら作品も好きなのだが、やはり60〜70年代のザラついた感触の作品の方が好みだ。
その時代。香港では最大大手ショウ・ブラザーズが作品を量産し、ゴールデン・ハーベストが対抗し、台湾ヤクザがロケに来た香港スタッフ、俳優まで含めて丸ごと雇って作品をデッチアゲ、と群雄割拠の様相を呈していた。
玉石混交。「石」と「宝石」が混ざり合ったトンデモない作品数で、しかもカンフー映画に限って言えば「石」でも充分、全く、全然、面白いのだ。
そんな「カンフー映画沼」にハマった私は、とにかく目につくカンフー映画を片っ端から観ていた。しかし、数を多く観れば観るほど、最初の頃に感じた新鮮さは薄れていく。突飛の無い作品も他のジャンルに比べれば充分にあるのだが、しかし、それでも“打率”のようなものは下がっていく。
そんなカンフー・インフレを起こした私の前に、知らないタイトルが現れた。

『Vixens of Kung Fu』
ヴィクセンズ:女狐たち。この場合にはスラング的意味の「エロい女」であろう。エロい女たちのカンフー……
香港でも80年代に全裸の女性たちが信じられないようなハードな戦いを魅せる素晴らしいカンフー映画があったが、このアメリカ産のカンフー映画はどうだろうか? しかしアメリカ産だとハズすとハンパなく大きくハズレの可能性もある。そんな思いで、アマのカートに入れっぱなしだったのを「今日か、来月か、来年か、いつかは観るんだから今日買っちゃえ!」と決算したのであった。

購入したのは、これもまた全然知らない映画『Oriental Blue』と2in1のDVD。
どこかの湖畔。天パー女子がお散歩中、トウのたった不良3人組にレイプされてしまう。

一人は口におちんちんを突っ込み、一人はアソコへおちんちんを突っ込み、残る一人は彼女の履いていた靴下を脱がせておちんちんを突っ込むという(最後の一人にとって)凄惨を極めた描写である。
犯された天パー女子は失意のドン底で森を彷徨っていると、空手道着の上以外はすっぱだかなカンフーグループに保護される。

天パー女子は娼婦で、お金目的のセックスに明け暮れる日々に疲れ、湖畔に来たところでレイプされてしまったのだった。という話を、主に仕事風景を中心にした回想で語るのであった。
天パー女子は、そのまま彼女らとカンフー修行に勤しみ、気合いを入れるとアソコの穴から煙が出るほどの腕前となる。

そのついでに、グループリーダーと肉体関係を持つのであった。そんな中、一人の修行僧が彼女らに戦いを挑む。しかし、にべもなく撃退。そのまま修行僧は輪姦されてしまう。
屈辱を胸にニューヨークの街を駆け抜ける修行僧。辿りついたのは中華料理屋の厨房。女料理人に修行を申し込む。じつはこの料理人は高名なカンフーマスターだったのだ。

カンフーマスターの元で、おちんちんに重しをつけてのランニングや全裸での型の稽古を積んだ修行僧は、彼女らに雪辱戦を挑む。その戦いは、イッたら負けのセックス対決である。果たしてこの戦いのゆくえは!?

という、ハードコア・ポルノでした。

面白いな! カンフー映画

入院中に観たDVD

大病に罹り入院するハメになった。
しばらくは寝たきりになるのは解っていたのでポータブルDVDプレイヤーを購入。持って行くDVDは過去に買ったはイイけど観ていない“積DVD”。強制的な退屈の中で、イヤでも“積”を消化しようという目論見だ。
あてがわれたベッドは窓際で針葉樹の木立に小鳥が休んでいるような好立地。そんな光景が広がる中、痛み止めを注入してもらい、ベッドに横たわって古い映画を観ていると、一足飛びに老後へ突入したような感覚になった。
たぶん、多くの宗教信者が想像する「天国」とはこういう場所・状況なのだろう。だったら私は地獄へ行きたい。まぁ、最初から天国は迎え入れてくれないだろうけど。しかし、地獄へ行くとなると信心しているスパゲティモンスター教の地獄になるワケだが。

大いなる幻影

1949年制作のジャン・ルノワール監督作。第一次大戦中、収容所から脱走しスイスへ逃げたフランス人と、彼を助ける戦争未亡人の交流。
黒沢清監督が自作のタイトルに引用しているので、どれほど深遠なものなのかと思っていたのだが、ささやかな生命賛歌のような作品だった。近年の作家で言うとラッセ・ハルストレムみたいな、ちょっとした日常の機微をテーマにしている感じ。

ゲームの規則

1939年制作の、これもジャン・ルノワール監督作。飛行機での単独大西洋横断を成し遂げた冒険家が上流階級の女性に恋をして、彼女の出席する社交界のパーティに参加したことから巻き起こる艶笑話。
こっちは、ほぼドリフ。どれほど深刻な状況でも鷹揚にやりすごすのがルノワールっぽい。人々がウワサ話をしながら個々の客間へ入っていく様子を廊下から撮ったり、嫉妬に狂った森番がパーティ会場で猟銃を振り回すなど、ドタバタ喜劇の原型のような場面が見られる。

『脱出』

1944年のハワード・ホークス監督作の方。カリブ海マルティニーク島を舞台に、はすっぱな女性とマッチョな男のメロドラマが描かれる。『カサブランカ』的な舞台設定は当時の流行りだったのだろうか? ハンフリー・ボガートローレン・バコールの華やかさの間持ちの良さよ。

『ギルダ』

1946年の映画。アルゼンチン、ブエノスアイレスを舞台にはすっぱな女性とマッチョな男のメロドラマ、というコレもまた『カサブランカ』的な設定。なんだけど「好き」だという感情をストレートに表現しない者同士の歪な恋愛模様として見るのが正しいだろう。好き合っているのに意地の悪いことしかしない2人。
ショーシャンクの空に』原作タイトル「刑務所のリタ・ヘイワース」は本作のリタ・ヘイワースのこと。壁の穴を隠すポスターが『ギルダ』のリタ・ヘイワースから『恐竜100万年』のラクウェル・ウェルチになっていたと描写して1946年から1966年まで穴を掘っていたことを表している。

ビッグ・コンボ

家人提供。1955年制作。ギャングのボスを逮捕しようと躍起になる刑事が、ボスの情婦に惹かれてしまう、いわゆるフィルム・ノワール。このジャンルはほとんど観ていなかったので、馴染みの無い文法で進むのが自分にとって新鮮だった。飛行場倉庫での場面がアレックス・コックス『レポマン』の、とある場面の元ネタだそうな。

『口紅殺人事件』

家人提供。1956年制作のフリッツ・ラング監督作。殺害現場に口紅で「ママに聞いてくれ!」のメッセージを残すマザコン連続強姦殺人魔をめぐり、新聞社内の権力争いが行われる。
メインになるのは権力闘争劇なのだが、それにしては強姦殺人魔のネットリとしたキャラが立ちすぎなのが異彩を放つ。

『泳ぐひと』

家人提供。高級住宅街、庭にあるプールを泳ぎ繋いで自宅まで帰る、というバカバカしい計画を実行する男を描く。最初のうちこそバカバカしい計画のバカバカしい楽しさがあるが、途中で出会う人々の反応の変化に、次第に寒々しい気持ちになっていく。凋落していく人をじっとり眺めるような気持ち。

『妖刀 斬首剣』

家人提供。1985年制作。『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』『レディ・ウェポン』のチン・シウトン監督作品。中国武術vsニッポン武士道の対決。とはいえ、武術を極める2人と彼らの強さを利用しようとする周囲という対立構造でいわゆる抗日作品にはなっていない。なますに切られた忍者が最後はとうとう首だけになりつつも「キサマにトドメを刺させるものか!」と爆発する場面で爆笑。

チャウ・シンチーの熱血弁護士』

家人提供。1992年制作。今は無きシアターNでのDVD化記念上映のチケット瞬殺で見れなかったのは悔しい思い出。ジョニー・トーチャウ・シンチーがタッグを組んだ作品。弁護士として口のうまさで成り上がったものの、奥さんの勧めで引退を決意する。しかし、決意させた当の奥さんがお茶屋でワケあり女性を助けたことで、復帰を余儀なくされる。
コメディに振った時のジョニー・トー作品らしい問答無用の楽しさに加え、チャウ・シンチーのスカし芸が光る。奥さん役がアニタ・ムイなので、マッチの顔が浮かんでしまう。

『死刑執行おだぶつTV』

ナマニクさんのお見舞い品。死刑囚に死を賭けたゲームをさせて失敗したらその場で死刑執行するTV番組のホストと、人権団体代表が共闘せざるをえなくなる。という設定70点、出来55点くらいな赤点ギリで免れた感なB級作品。
ナマニクさんはこのお見舞い品を新宿ビデオマーケットさんで購入。経済のサイクルの輪が半径1メートル以内に収まっている! 

神話の終わり、民話の始まり『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』

ネタバレが多いので、まだ未見なら以下は読まずに、まずは劇場で何があったのか確かめて欲しい。

スター・ウォーズ 最後のジェダイ』映画が始まってすぐ。基地から撤退途中の反乱軍はファーストオーダーに強襲される。ポー・ダメロンの機転により攻撃空母ドレッドノート主要砲台はツブされ上からの攻撃には対応出来なくなる。ここでレイア将軍から撤退の令が出るがポーは無視し、爆撃機を出動させる。しかし、ファーストオーダーも大量のタイファイターで迎撃に出る。
反乱軍爆撃機パイロットのペイジ・ティコは、迎撃手も爆弾投下係も死んで、爆撃機にたった一人残されてしまう。ペイジは自分自身で爆弾投下ボタンを押し、ドレッドノートを沈めるのだが自身もその爆炎を受けて死んでいく。
いままでのスター・ウォーズ(以下SW)でも一兵卒の死は描かれてはいたが、ここまで叙情豊かに描いたのはep6でのイウォークの死を慈しむ仲間の描写以来か。しかも今回はスローモーションまで使い観客に彼女の死を強く印象付けている。ここまでの「一兵卒の死」描写はSW映画史においては初だと言って良いだろう。
これは妹であるローズ・ティコが脱出ポッド前で見せる感情に観客を共感させるためとポーの無謀さを印象付ける演出だが、このペイジの死に紐付けられた描写が「最後のジェダイ」全体の方向性を決定付けている。

●神話の時代

そもそもSWは古い連続活劇映画の再興であることは、良く知られているところ。「エピソード(以下ep)」表記も、実は連続モノのパロディのような意味あいだった(初公開時にはep表記は無かった)。しかし、歴史的な特大ヒットを飛ばしたことにより続編制作にGOサインが出され、晴れてep表記がつくことになる。
ダースベイダーの正体。ルークの双子の妹の存在。ベイダーとオビ=ワンの関係などなど。それまでは単なる設定だったバックボーンが作り込まれ、SWシリーズは「連続活劇もののパロディ」からスカイウォーカーの血族の「英雄叙事詩」、つまり「神話」へと変貌する。
ダースベイダー/アナキン・スカイウォーカーを描くプリクエル3部作もそういった「神話」としてのSWをさらに補強する形となった。
ep5、ep6の2作が、それなりに毀誉褒貶はありながらも観客には大いに受け入れられた一方、プリクエル3作は大いなる不評を買うことになった。人気者とはいえ悪役が生まれるまでの暗い物語であったこと。現場から長く離れたジョージ・ルーカス自閉症的な作劇と演出。などなど要因は様々だが、批評家を始め、多くのオリジナル3部作のファン(しかもそれなりに熱狂的なファン)まで、否定側に回すこととなる。
その、プリクエル3部作から十余年。新たなサーガが作られる。
ep7「フォースの覚醒」だ。シリーズものの立て直しばかりがフィルモグラフィに並ぶJJエイブラムス監督はSWの新作を、オリジナル3部作のパロディのような作品に仕立てた。
レイ、フィン、ポー、BB-8、カイロ・レン、キャプテン・ファズマ、スノークなどの新しいキャラクターを投入しつつ、その実やっていることはep4とほぼ同じだった。
しかし、この新作はそれなりに好意的に受け入れられた。それは本作にただよう「オープン戦感」と言えば解りやすいだろう。つまり、“リーグ戦”とは関係無いけど“開幕”を喜ぶお祭りとして、である。
斯くして、最新作ep8「最後のジェダイ」は本筋の“リーグ戦”としての最初の1本と言えるスタンスになってしまった。ところがep8は、ep7の「オープン戦」路線を引き継ぐ。つまりパロディのような続編だ。
実際に、解りやすい「パロディ」描写もある(帝国軍高官がヒドい目に合うギャグはep5みたいだし、レイがカイロ・レンと共にスノークに会う場面はep6でのルーク、ダースベイダー、パルパタインの場面そっくりだ)。しかし、ここで言いたいのはオリジナル3部作のep4からep5、ep6へ移行した際の改変具合のパロディだ。

●「革新」か? 「原点回帰」か?

「未来予知」や「人を操る」などの、物理法則は守った描写だったep4での「フォース」が(物を浮かせるタイプの)「念力」まで使えるようになったのはep5からだ。
プリクエル3部作でフォースは「ミディクロリアン」なる物質を遺伝的に継承したもののみに扱える「貴族制」のようなスタンスになったが、これが不評を買う。
そこでep7ではハン・ソロにノールックでトルーパーを打ち殺させたり、『ローグ・ワン』でド兄ィさんに十字砲火の中を歩かせたり、ep4レベルの「フォース」なら、それなりに気合いの入った人であれば使える。という設定にシフトさせていた。
ep8ではさらに踏み込み、念力が使える方の「フォース」も、鍛錬次第(もしくは純粋な子供なら)使える。という設定へ更新されている。さらに、ルークのようなジェダイマスターなら、遠い星に幻影を現すことも出来るし、ヨーダのようなスーパージェダイマスターなら天候を操ることすら可能になった。
これはep4からep5へのフォースの扱いのアップデート加減のパロディだ。
「ファミリーツリー」の改変もしかり。ダースベイダーがルークの父親になったのはep5から。レイアがルークと双子になったのはep6からだ。
「ルーカスは最初から、そう設定していた!」というのは聖書原理主義ダーウィン進化論の否定のようなもので、いかにルーカスが「最初からサーガ構想だった!」と言っても、ep4ではオビ=ワンの「ベイダーがお前の父親を殺した」の台詞や、レイアとルークのキスシーンがあった。ep5でもハン・ソロへの当てつけとはいえ、やはり双子で交わされるものにしては情熱的なキスシーンがあった。これらはもちろん最初から計画していなかったからの描写だ。
ep8では、ep7でのレイをめぐるもったいぶった描写(宇宙へ飛んでいく船=両親を見守る子供時代のレイ)がありながら、レイの両親はジャクーの片隅で死んだことになった。
つまり、前回までの設定を反故にしてでも「革新」するのがオリジナル3部作ep5、ep6への「原点回帰」と言える。
つまり、「革新」であり「原点回帰」だ。

●神話の終わり

SWが「独自の神話を持たないアメリカ国民への、最初の国産の神話だ。」という言説はオリジナル3部作の時点でよく言われていた。つまり「普通の人」の世界に、超常的な力を操る「神様」のような人たちが現れて、目をみはるような戦いをする。
そのSW神話が終了したのがep6だ。パルパタインの死でシスは滅び、レイアとルークの双子がフォースにバランスをもたらして終わった。
なので、神話が終了した後の世界を描かざるをえなかったのがep7、ep8だったのだがep7は上記した通り「神話」の最後っ屁のような作品になった。そして、改めて「神話が終わった後の世界」に対して真摯に向き合ったのがep8である。
ジェダイとシスの時代は終わり、特別だと思われていた力“フォース”は多くの人々に共有されてしまう。英雄的な死よりも、生き残ることこそが美徳とされる。平凡な“自分/観客”とは関係の無い神々の戦いは終わり、惨めで悲惨で地に足のついた“自分/観客”の世界と地続きの世界の物語。
つまり「民話」だ。
一兵卒のペイジ・ティコの悲壮感たっぷりの死の描写。ぶちゃむくれな妹ローズと、元は十把一絡げのストームトルーパーの、さらに落ちこぼれのフィン=普通の人々による「ヒロイックな特攻」への否定である。
この「神話から民話」への移行が(主に批評家の)絶賛と、(主にSWファンの)拒絶を引き起こした、大きな要因の一つだと言えるだろう。
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ちなみに。SWを貶す常套句に「結局、スカイウォーカー一家の家族同士のケンカじゃん!」というのがあるが、神話だという頭で見れば、いかにセンスも教養も無い戯言なのかは推して知るべし。神話とは家族同士の大ケンカだったりするものだ。

●指輪が無くなった中つ国の物語

ここで、わかり易いたとえ話をしよう。
先に、「4、5、6」が作られ、後に「1、2、3」が作られた映画といえば『ロード・オブ・ザ・リング』『ホビット』のシリーズが挙げられる(原作は順序良く出版されているけど)。
ロード・オブ・ザ・リング』3作目「王の帰還」ラスト。フロドにより「ひとつの指輪」が破壊されたことにより、中つ国からエルフやガンダルフに代表される「魔法」が消える。つまり「神話の終わり」だ。
もしも「王の帰還」の後の、トールキンによる原作の無い中つ国を描いた映画が作られたとしたら。1本くらいならお祭り感覚で受け入れられるかもしれないが、2本、3本と続けば、いかに映画としての出来が良くても、やはり「映画としての評価」と「トールキンファンの評価」は別れるだろう。
ルーカスが関わっていないep7やep8のように。

ルーク・スカイウォーカーキャリー・フィッシャー

SWファンにとってep8が不安を掻き立てる作品になったのには、さらに別の、大きな要因がある。主要登場人物2人の「死」だ。
反乱軍を助けるために決死の術でカイロ・レンを欺いたルークは、力尽きて死ぬ。しかし、ジェダイは、やりきった感を持ちながら死んだ場合ネオン光彩を放つ霊体として復活できる。なので、ルークはep9へも出演はするだろう。しかしシリーズを通して「スカイウォーカー」の名前を持つ“生きた”登場人物は絶えたことになる。
もう一人は、キャリー・フィッシャーの「死」だ。
ファーストオーダーの襲撃を受けよもや!? と思われたが、レイア姫はシリーズで初めてフォースを使い無事生き延びる。しかし、当の演じるキャリー・フィッシャーがep8公開前に逝去してしまった。
製作側から「『ローグ・ワン』でのピーター・カッシングや、若い頃のレイア/キャリーのようなCGIでの出演は無い」と発表がされているので、現存するフッテージのみか、オープニングの説明で死んでしまうのか、いずれにせよ映画としては唐突な退場になるだろう。
キャリーの逝去は2016年12月26日。なまじ公開まで1年もあったことで、ep8は現状の展開では無く、もっと自然に退場し、残されたルークが最後の希望(もしくは最後の希望を紡ぐマスター)として「スカイウォーカー」の「神話」の続きが描かれるのだろうと、多くのファンは思い込んでいた。ep8はこの多くの予想を裏切り、ルークを殺し、過去の「神話」の象徴をレイア独りに託してしまった。しかも託された「神話」は放棄せざるをえない状況でだ。

●ep8の毀誉褒貶のワケ

現在、ep8はシリーズ史上かつてない、振り幅の大きな毀誉褒貶のネタになっている。上記した中でもやはり「スカイウォーカー神話」を終わらせてしまったのは大きな理由だろう。
そして、市井の人々へフォースを与え「神話」から「民話」へとシフトした「革新的な原点回帰」。
キャリー・フィッシャーの死に対して、あまりに無頓着に見える「おい! それ続きどうすんだよ!」という展開。
などなど。
加えて様々な立場の人々が、それぞれの捨て置けない要因について、憤り、支持し、と、入り組んだ思惑の複合的な理由がある。数千字程度の文章では言い表せないのだ。

私?

私はスター・ウォーズを愛している。

ハロウィン記念 マイ・ベスト・ホラー映画 Best 20

リストしてみたけどベストというと語弊があるなぁ。好きなホラー、思いついたまま挙げた最初の20本。

1)『遊星からの物体X
2)『ミザリー
3)『エルム街の悪夢
4)『スペース・バンパイア』
5)『ゲット・アウト
6)『デビルズ・リジェクト』
7)『戦慄怪奇ファイル コワすぎ! 史上最恐の劇場版』
8)『死霊のはらわた
9)『クリープショー
10)『悪魔のいけにえ2』
11)『ビデオドローム
12)『狼男アメリカン
13)『エイリアン2』
14)『ドラキュリアン』
15)『デスプルーフ
16)『ブレイン・デッド』
17)『ピラニア3D』
18)『ダークマン
19)『バスケットケース3』
20)『ファイナル・ディスティネーション』

ウォーペイントはマックスファクター

アトミック・ブロンド』と『女神の見えざる手』をハシゴして観た。
両作共に女性が主人公で、男どもの跋扈する世界に飛び込み、時に暴力的な手段で活路を切り開く、痛快な娯楽作品だ。
続けて鑑賞したことで気づいたのだが、両作共に主人公の化粧から映画が始まる。
男にとって習慣がない「化粧」だが、両作品の主人公が男であったら、少なくとも『アトミック・ブロンド』は拳銃の手入れや予備のマガジンのチェックをする場面に替わるだろう。
タランティーノの『イングロリアス・バスターズ』で、家族を殺されたショシャナが自分の映画館でナチの国威高揚映画の上映をさせる直前、実際には行っていない心象風景として顔にインディアンのウォーペイントをする場面がある。
いみじくも、『イングロリアス・バスターズ』当該場面と『アトミック・ブロンド』オープニングはデヴィッド・ボウイによる『キャット・ピープル』のテーマ曲が使用されている。

女性の化粧とは、対社会/世界との戦いに赴くためのウォーペイントなのだろう。